酒都の往事:英雄の項羽に遇う

江蘇北部の都市宿遷には、中国の歴史に大きな影響を与えた項羽という英雄がいた。2000年余りの間、項羽は無数の文人墨客、仁人志士に傾倒させ、褒め称えられてきた。王にはなれなかったが、中国の偉大な歴史家司馬遷は、項羽を帝王の列に入れて記述したことで、『項羽本紀』は『史記』の中で最も輝かしい章になった。

中国は古代に常に成敗をもって英雄を論ずるが、無数の英雄豪傑は功業を成し遂げなれなかったため、ついに歳月の埃に埋もれてしまった。しかし、項羽はこの規則で縛られず、敗死しても後世の人々に敬慕され、死んでしまっても英雄である。

「戦神」——蓋世の英雄、西楚の覇王

項羽は身長が8尺で、才気が人を抜きんでて、兵法に優れ、中国の軍事思想「勇戦」派の代表人物であり、中国語において「覇王」という言葉は項羽を指す。項羽は一生に数多くの戦いを経験し、鉅鹿の戦いは項羽の名声を決定的にした戦いであった。この戦いでは、彼は秦軍を打ち負かし、民心に順応して暴秦の統治を覆し、歴史的前進を推し進めた。彼は数万人の楚軍の将兵をもって、40万人の訓練を積んだ秦軍と交戦し、楚軍の兵士は皆一騎当十であったため、敵軍は応戦する勇気がなく、ただ砦の中で観望していた。秦軍を破ると、項羽は上将軍として任命され、諸侯たちは彼に帰依した。

彭城の戦いは項羽の一生の中でもう一つの少数が多数に勝つ有名な戦いであるが、今回の相手は秦軍ではなく、劉邦が諸侯たちから集めた56万人であった。兵力の差は大きいが、項羽は卓越した知恵と人並み以上の軍事的才能を発揮して敵の意表を突いて勝ちを制し、半日だけで漢軍を撃破した。兵敗した劉邦は悪天候を利用し、黄塵の中で幸いにも脱出した。

楚漢戦争は4年も続いたが、戦功赫々たる項羽は結局、劉邦との最後の対決となった垓下の戦いで惜敗した。烏江に追い詰められる項羽は、江東の地に戻って再起するように兵士に勧められたが、麾下の軍士が戦死したのに一人で生き残ると江東の者たちに会う面目がないと恥入り、自ら首をはねて自害した。

今、項羽の物語は項王故里で探し求めることができる。高く聳える西楚城楼は昔のにぎやかさを再現し、変化に富んだ景色を見て、まるで千年を通り抜けるようである。観光地の封侯台は項羽の人生の最盛期を再現し、英風閣内には項羽の漢白玉の石像がそびえ立っていて、高くて威勢が強く、風采が立派である。展示館内では、天下に名をとどろかせた鉅鹿の戦いから、一触即発の鴻門の会、劉邦を大敗させた彭城の戦いまで、また垓下で包囲されて十面楚歌になり、最後に烏江で自らの首を刎ねたという項羽の生涯が再現された。

「愛神」——項羽虞美人の永遠の愛

失敗した項羽は多くの後人に礼賛された。それは軍功の優れた将であるだけでなく、誠実な夫でもあったからである。世局を左右する力もしとやかな心もあり、この上なく勇猛で義理と人情に厚い。彼と虞美人の愛は2千年余りの間に広く伝えられ、その中には多くのロマンチックな物語と伝説がある。

虞美人は項羽を慕うのはある縁日のことであったと民間で広く伝えられている。当時、項羽は若者たちと力比べをし、順番に大きな鼎を運んでいた。項羽はいともたやすく大きな鼎を挙げてみんなに称賛され、虞美人の注目を引いた。それから、項羽に恋心が芽生えた。しかし、項羽と虞美人の恋は完璧な結末を迎えられなかった。垓下の戦いで虞美人は項羽に追随して自害した。彼女が埋葬された場所には、一輪の紅い艶やかな花が咲いていたと伝えられており、人々は虞美人を記念するため、この花を虞美人と命名した。

この深い感動を呼び起こす恋は多くの現代の若者に羨望されている。項羽記念堂内の古い槐樹は、項羽と虞美人が幼い頃に共同で植えたものだと伝えられている。今この木は多くの恋人が愛情の円満を祈る頼りになっている。