漢風物語、目に見える漢時代の生活

徐州は、古くから彭城として知られ、江蘇北部に位置している。ここは漢高祖である劉邦の出生地であり、紀元前202年、垓下の戦いに勝利した劉邦は、4年間にわたる楚漢戦争を終わらせ、漢王朝を創立し、中国の歴史にそのような偉大なる時代を生み出し、繊細で柔らかで美しい、緻密でエレガントなだけでなく、古いものが消え去る勇敢な精神と豪放不羈もある。今日まで、ほとんどの中国人が使用する言語は「漢語」と呼ばれ、その文字は「漢字」と呼ばれ、「漢人」は今でも彼ら自身の自称である。

漢時代の兵馬俑:地下深くにある千軍万馬

漢時代の社会では、生と死に対する人々の理解は、古くから受け継がれてきた原始的な崇拝から生まれた。軍隊を持っている諸侯や将軍は、死後も数千人の軍隊を指揮できることを望んでいるため、兵馬俑が作り出されていた。徐州の漢時代の兵馬俑は、西漢時代の第3世代楚王劉戊の殉葬品である。漢時代の兵馬俑博物館の6つの俑坑から、合計4,000人以上の陶器の人形が発掘され、西漢初期の軍隊の編制を示している。

背が高く壮観で、写実主義に満ちた秦の兵馬俑は、人々に一種の強さと美しさを与えるが、漢時代の兵馬俑は異なる姿勢を示している。写意の彫刻手法では人形の輪郭の線の比例が正しいかを重要視しなく、逆に人形の心の世界と精神風貌に重きを置いでいる。実在の人物の比率の4分の1に基づいて作られたこれらの陶器の人形は、高さが60cm以下であり、「ミニ型」の漢時代の兵馬俑は空想から生まれたわけではなく、長年の戦争によって資源の極端な不足を引き起こしたため、漢時代初期は、人民の負担を軽減し生活を安定させる政策を実行し、節約を提唱して百姓の生活を改善することで、漢時代の人形が小さくなった主な理由となった。

製造工程では、徐州の漢時代兵馬俑を型で作り、職人が手作業で彫刻しているため、陶器の人形の表情はさまざまな様態を呈し、それぞれ異なって、その中には泰然自若としている若い兵士や、冷淡な表情の力強く精悍な歩兵、手に手綱を持って武器を振るう騎兵もいって、規模が大きく精鋭な軍隊が破竹の勢いで人々にかかってくる。

漢時代画像石:石に刻まれた漢時代の生活

漢時代画像石は、漢時代の地下墓、地上の祠堂、宮殿の門などの建物に肖像画を刻むために使用される建築用石である。漢時代の人々は、「人の寿命は金石のように不変ではないのだ。」と嘆いた。石を使って墓を建て、生活のさまざまな場面を彫刻し、金石のように永遠に続くことを願った。そのため、漢時代画像石は、漢時代の生活、信念、民俗を直接、真実かつ具体的に表している。

漢時代の人々は自分たちの物語を石に刻んだ。鴻門の宴や匈奴への抵抗などの中国人のよく知られた典故以外、人々は漢時代画像石から当時の人々はどのように先祖に祭祀したか、子供たちがどのようなゲームをしたか、そして男性がどのように拳術の練習をしたかなどより些細で普通の日常生活を見ることができる。これはすべて、画像石で復元された人生のドキュメンタリーのようなものである。時間は石の上で固まったように変化がなく、今日まで保存されている。

ヒント:徐州の漢時代画像石博物館には、漢時代画像の石拓片の制作プロセスが展示され、観光者は自分の手で漢時代画像の石拓片を制作できる。