揚州という街の「大運」の半分はこの河の賜物だ

「世界文化遺産」中国大運河、江蘇省内では北は徐州に始まり南は蘇州に到るまで8つの地級市を流れている。そしてこの1/8のうち、大運河と最も絆が深い街、それが揚州である。揚州は運河によって生まれ、運河とともに興った街なのだ。

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大運河揚州段

始まりは春秋、運河で興った街

紀元前486年のこと、呉王夫差は邗溝(古代中国の運河の名前)の開削を命じ、河口に邗城を築いた。これが揚州の街のひな型だ。漢代になると、呉王劉濞がここを都と定め、邗溝の開削を継続して現在の江蘇省南通一帯まで開通させ、塩や銅の運輸に用いた。隋の時代になると、まず文帝による邗溝改修後、揚州を三度訪れた煬帝によって国力を挙げた大運河開削が行われ、南北水上交通の大動脈が誕生、揚州は華夏の大地へと結ばれた。

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瓜洲古渡

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茱萸湾

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邵伯古鎮

こうして運河水道には行商人が雲の如く集まり、揚州は大運河のおかげでかつてない人気を獲得、ここにおいて大運河によって揚州の「黄金時代」の幕が上がったのである。

運河、塩商と園林

古くから塩を生産してきた江蘇では、清朝の時代に両淮塩区を管轄する両淮塩運使が揚州に置かれた。これにより、まるで川を渡るフナのようにひしめきながら南から北へと向かう塩商が引き入れられ、揚州の繁栄は頂点へと向かった。

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清末の江漢関監督何芷舠の邸宅「何園」

食塩を独占した塩商たちは、また運河交通の力も借りることで塩を全国へと広く売りさばき巨額の富を得た。贅沢三昧の生活を送った彼らであったが、同時に揚州の風雅な気風を愛し、元手を気にすることなく盛んに土木工事を行った。こうして個園などの精妙の限りを尽くした私家園林が生まれたのである。また、塩商たちは生活における立ち振る舞いにもこだわり、揚州という街の精緻かつ風雅な特性をさらに一歩高めることになった。

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塩商黄至筠の私邸「個園」は中国四大名園として列挙される

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揚州早茶

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鄭板橋≪竹石図≫

揚州中国大運河博物館

今日、大運河はすでに食糧や塩の水運という重任を担うことはなくなったが、「南水北調」工程の一環、中華民族の重要な文化遺産としてその役割を変えながら華夏の水運文明を繋ぎ、そして伝えている。揚州にある中国大運河博物館には、この街と大運河の千年にもわたる切っても切れない縁が刻み込まれている。

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揚州中国大運河博物館

博物館内では悠久の大運河史詩が洗練・濃縮されている。伝統的な展示手法のほか、現代科学技術によって運河文化をさらに具象的に、生き生きと、多様に表現している。リアルタイムレンダリング全体投影、720度没入式情景インタラクティブシアター、実景インタラクティブ謎解きゲームなど、高難度の複合型展示手法で、来館者たちに全方面の没入体験を提供、大運河の前世と今生を振り返る内容になっている。

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3号館「運に恵まれ誕生した――大運河の街の印象」

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8号館「河の恋」

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実景インタラクティブ・ロールプレイングゲーム「大明都水監之運河迷踪」

もし機会があれば、揚州を訪れて一目見て、古運河沿いを歩いてみよう。大運河博物館のなかをぶらぶらして、大運河とこの「運河の街」を、そしてその2500年の夙世の縁を肌身で感じてみよう。